『ドイチュラント』誌2002年第2号より転載 (aus: Zeitschrift "Deutschland" 2002/02, Societaets-Verlag)
歴史の精神は、その最良の側面を見せた。「ヨーロッパの将来像に関する会議」のヴァレリー・ジスカールデスタン議長がブリュッセルの欧州議会で演説し、会議メンバーは自らの国籍や政党にかかわりなく、心からの賛意をもって拍手を送った。わずか数時間前には、この厳かな開幕式には一抹の暗い影が差していた。EU 加盟15 カ国の議会および欧州議会の代表、加盟国の政府特使、並びに加盟候補13 カ国の特使の総勢105 名の会議メンバーは、議事規則に抵抗の構えを見せていたからである。ジスカールデスタン議長は、将来像会議の頻度や作業グループの構成、専門家の選任に関して、メンバーに決定権はないと考えたのだが、この点で元フランス大統領は、ブリュッセルの議会制"免疫システム"を過小評価していたのだ。会議のメンバー105 名のうち72 名は議会議員であり、28 名の政府代表の大半も、会議で議員がどれほど大きな力をもつか、自らの体験に即して知り抜いている。将来像会議メンバーが丁重に、しかし断固たる態度をとっただけで十分であった。議事規則案問題にはけりがついて、一抹の影は雷雨に至らずに済んだ。将来像会議は、議事規則をめぐる問題であるべき姿を取り戻した。静かな反乱が、会議を議長団主導型から議会的色彩の強い会合に変えたのである。
将来像会議は今後1年半、完全に審議を公開しながら、将来のヨーロッパがどのような形を取るべきか構想することになった。昨年12 月にブリュッセルのラーケン宮で開かれたEU 首脳会議において、各国首脳はこの新形式の委員会に対して60項目以上の課題を提起している。これは窮屈な運行表であった。ベルギーやドイツは「会議で行う提案は指針であり、それ以上のものではない」と述べ、会議が最大限の自由を確保することを目指した。ラーケン・サミットでは、将来像会議の権限が問題になったが、今日では、何を協議するかが問われている。例えば、フランス人の欧州委員で会議のメンバーのミシェル・バルニエは、「われわれはどのようなヨーロッパを望んでいるのか」「何を実現しようと考えているのか」、なかんずく「われわれには何が実現できるのか」と問いかける。
ラーケンで各国政府首脳は、「明快で透明で効率的で、民主的に規定された共同体の構想、すなわちヨーロッパを世界の未来を指し示す導きの星とする構想」を求める、との声明を発表した。これにより、欧州連合の民主主義の問題が提起されたのである。膨大な課題の解決が、この将来像会議に求められている。1997 年のアムステルダム首脳会議と2000 年のニース首脳会議では、数々の課題が解決されなかった。また、15 カ国の加盟国の間でEU についての理解も統一されなかった。EU のどの機関がどのような権限を持ち、またどの方向に発展させられるのか。EU の機構間、あるいは加盟国とEU 間の権限は将来どのように分割すべきなのか、どうしたら共同体の諸組織を民主化し、その任務を市民が読み、理解できるような内容に再編することができるのか。どのような役割を加盟国の議会は担うのか。どうしたらいわゆる市民社会を組み入れられるのか。そして、どうしたらEU は再び信頼を取り戻すことができるのか。
ひかえ目に選択肢の形でいくつかの提案を行うのであれ、唯一の大胆な案を推奨するのであれ、将来像会議の決定は2004 年の政府間協議において各国首脳に拒絶されるか受諾されるかして、その後は各国議会の表決に委ねられる。それゆえ、将来像会議の105 名の代表にとっては、ご大層な言葉ほど恐ろしいものはない。いわく、連邦制、憲法、超国家または超大国、あるいは「ヨーロッパ合衆国」など。社会民主党の欧州議会議員でドイツ人として唯一議長団に名を連ねるクラウス・ヘンシュなどは、こうした言葉がそれぞれ各国で意味が異なっていると、次のように警告する。「将来像会議が定義やモデルや方法論に関する論議に迷い込むようなことになれば、会議の失敗は必至である。この会議は、とにかく提案のひとつひとつが欧州憲法の基本構成要素になり得るという定言的命令に従うべきである」と。だが、この要求にもまた、「憲法」という恐怖の語がひとつ紛れ込んでいる。会議メンバーのなかには不安や底意を抱く者も少なくないため、初めは大きな計画を構想するのは難しいだろう。しかし、それも初めだけである。議論は進行しなくてはならない。「ヨーロッパ像を夢想しようではないか」と、ジスカールデスタンは大演説を締めくくった。自由な思想家の会合だけが成功への道を見出すだろう。その際、議長のヴァレリー・ジスカールデスタンはメンバーを導くのではなく、むしろ励ますことが必要となる。
この会議は、議会ではない。選挙による選出を経ていないからである。また、政府間協議に代わるものでもない。決定権を持たないからである。だが、まさにこの点に二重の自由がある。Konvent (会議)はKonvention (慣習)の反対を意味する。誰もタブーを恐れてはならない。だからV やF 、K の付く恐怖の語も俎上に乗せるのだ。Konstitution (憲法)のK またはVerfassung (憲法)のV。構うことはない。「その名にふさわしい」憲法条文、これが私の考える「理想的な成果」である、とゲルハルト・シュレーダー首相はラーケンで述べた。また、ジスカールデスタン議長は「われわれがいま、憲法条約の概念で合意すること」を提案した。まず差し当たりFoderalismus (連邦制)のF 、これも恐れる必要はない。なぜなら、将来何がEU の権限とされ、何が構成国の特権として留め置かれるべきかを本質的に考察しようとすれば、連邦という表現を好まずとも、必然的に連邦制的な基盤に立って考えざるを得ないからである。ヨーロッパ合衆国? またしても、ほぼ全員が直ちに拒絶反応を示す。だがここで中心的な問題となっているのは、ポスト国民国家の全体と部分の間の権限分割であり、グローバル化の時代における新しい形の民主主義なのである。かつては「私」と言ったところが、「私たち」に変わるのである。将来像会議に全面的な成功を望む者は、憲法を備えた合衆国、すなわち連邦国家形態のヨーロッパを求める。これにはどんなモデルも規範とならない。アメリカ型でもなければドイツ型でもない。会議のメンバーが想像力を働かせ、独自の道を切り開く必要があるのである。
その際、メンバーは山ほど提案されている構想や計画を利用することができる。「ヨーロッパの将来」に関する厳密な論考というよりはむしろ示唆に富む提案である、ヨシュカ・フィッシャー外相「個人」の2 年前のフンボルト大学での歴史的な演説以来、現職であれ名誉職であれ、名だたる政治家のほとんどが、また、名声を重んじるシンクタンクのほとんどが、機会を逸することなく、このテーマについて発言してきた。この論争の頂点となるのは、政府間協議のテーブルに提出される勇気ある最終案かもしれない。フィッシャー外相が一石を投じなければ、民主的な体制のEU を検討する将来像会議の礎石も置かれていなかったであろう。
誰が会議のオピニオンリーダーになるのか--。もちろんジスカールデスタン議長である。さらに2 名の副議長である。キリスト教民主党所属で連邦制を唱えるジャンリュク・デハーネ前ベルギー首相と、きわめて積極的な欧州統合論者のジュリアーノ・アマート前イタリア首相である。比較憲法学者のアマートは穏健な社会党員で、2 度の首相経験をもつ。イギリスからはピーター・ハイン欧州相、フランスからはピエール・モスコヴィシ欧州相、ベルギーからはルイ・ミシェル外相、そしてスウェーデンからはレーナ・イェルムヴァレン副首相が代表に選出された。壮観なのは加盟候補国の顔ぶれである。たとえ公式的にはオブザーバーの地位しかなく、最初は1 人も議長団に加わっていないものの、加盟候補国の代表はすべての議論に同席することになっている。エストニアは前大統領のレンナルト・メリを、ブルガリアも前大統領のペータル・ストヤノフを選出した。ハンガリーとチェコは外相が代表を務め、トルコからはメスット・ユルマズ副首相が選ばれている。
最初に、会議は作業方法と討議議題を決めねばならない。その後、遅くとも今年の秋には書類棚を埋め尽くすほどの案件を遅滞なく討議にかける必要がある。EU の機構間、あるいはまた加盟国とEU 間の権限は、将来どのように分割すべきなのか。どうしたら共同体の諸組織を民主化し、その任務を市民が読み、理解できるような内容に再編することができるのか。そして、どうしたらEU は再び人々の信頼を回復することができるのか。これらすべては解決が難しく、またEU の最近の歩みのなかで複雑化している。
これと比較すれば、ローマン・ヘルツォークを議長とする2 年前の欧州基本権憲章制定会議は比較的容易であった。会議が扱ったのは未開拓の領域で、これはEU がそれまでほとんど顧みなかった反面、それぞれ異なる基本権の伝統を持つ国民国家は以前から集中的に取り組んできた分野だったからである。そのため、ヘルツォーク会議にとって総合を図るのは容易であった。これに対し、将来像会議はつるやいばらをかき分けて進まねばならない。これだけでも、歴史上のどんな大会議とも比較にならない。アメリカ革命やフランス革命の憲法制定会議、あるいは第二次大戦後西ドイツで誕生したばかりの州の代表がヘレンキームゼーに集った制憲会議とも異なる。これらのケースはいずれも民主主義の確立以前であり、自由独立を宣言する自由をまず獲得する必要があった。しかも、いずれの場合もこの自由には制約があった。1787 年のフィラデルフィアの憲法制定会議では、独立13 州のうちの12 州から55 人の白人が代表として集い、秘密厳守のもと、ひと夏かけて討議を行った。女性、黒人、アメリカ原住 民は考慮されず、ましてや会議のテーブルに着くこともなかった。
同じ光景がヴェルサイユのテニスコートでも見られた。1789 年、三部会が第三身分の圧力と主導のもとに国民議会への転換を宣言したとき、会議のメンバーは豪商や法律家の限られたサークルであり、これにリベラルな聖職者や貴族が補足的に加わっただけであった。農民も零細な手工業者も含まれていなかったのである。西ドイツの制憲会議も結局のところ、ドレスデンの政治学者ハンス・フォアレンダーの記すところによれば、「はるかに国民の注目を集めたフランクフルト経済評議会の陰に隠れてしまった」のである。つまり、どの歴史的な大会議も教科書通りには行かなかったのである。メンバーが民主的に選出された準備会議もなければ、決定事項を国民投票にかけた例もない。にもかかわらず、欧州将来像会議は過去の会議とひとつ共通点がある。前例のないほどの新しい出発、という側面である。自由、リベルテの情熱には欠けるところがあるかもしれない。しかし、正当で公正な政治的秩序への期待が、105 名の代表を過去の有名なフィラデルフィアあるいはヴェルサイユのメンバーと結びつけている。将来像会議の代表は、この点で過去に比肩しよう。またこの点で、ヨーロッパ中の市民から評価されることになろう。
ヨアヒム・フリッツ・ファンナーメは週刊新聞『ツァイト』の欧州特派員。ブリュッセル在住。
(中島大輔 訳)
原題:"Europa von morgen" von Joachim Fritz-Vannahme
原文は次のURLを参照:http://www.magazine-deutschland.de/